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福岡で生まれ育った悲運の宰相広田弘毅の生き様を記憶に刻みたい [知っておきたい博多の人物]

福岡県出身の総理大臣と言えば、若者は麻生太郎氏のことしか知らないかも知れません。


麻生太郎氏のことを「麻 生太郎(あさ なまたろう)」と思い込んでいる人もいると、ご本人が選挙演説の時におっしゃっていた記憶があります。^^;


さて今回はもう1人の福岡出身の総理大臣をした広田弘毅氏のことについて触れたいと思います。


私が広田弘毅氏のことを知ったのは、高校生の時に読んだ城山三郎氏の著書であるこちらの本です。




アクロス福岡の前の水鏡天満宮の鳥居にある「天満宮」と書かれた掲額があることをご存知でしょうか?


この「天満宮」と書いた文字は、広田弘毅がなんと小学生の時に書いたものなんです。


広田弘毅は鳥居の工事をしていた石屋の長男坊で、字が上手いと評判の子供だったのです。


父親はひと月に35日分働くといわれるほどの働き者で、「三十五日さん」といわれていたそうです。


尋常小学校を卒業したら石屋を継がせるつもりでいた父親は、字が上手なだけでなく学業も優秀な息子を知人の説得もあって修猶館中学に進学させました。


三国干渉のニュースを聞いた広田弘毅は日本の外交力のなさを感じ、外交官を目指すようになりました。


第一高等学校から東京帝国大学法学部に進み、外務省に入省した広田弘毅の同期性にはあの吉田茂がいた。


外務省では、中国、ソ連、イギリス、オランダ、アメリカなどへ赴任し、街を歩いては国民性を見極め、誠実な人柄多くの功績を残し、外務省内での人望は圧倒的だったといいます。


犬養毅総理大臣が暗殺される5・15事件の翌年に、広田弘毅は外務大臣に就任しました。


そして1936年の2・26事件の直後、広田弘毅が58歳の時に総理大臣となったのです。
(当時総理大臣になることは暗殺される覚悟が必要だった時代にです。)


暴走を起こしかねない軍部に対し、「自分は粛軍をやり正邪のけじめをつける。この内閣はそれだけでいい」と軍部の力の弱体化を図り、庶民のための政治を目指したのです。


広田内閣は一年足らずで総辞職することとなったが、在職中に行ったのが文化勲章の制定だったのです。


軍人や役人ばかりが勲章を貰うだけではなく、等位のない文化勲章に天皇陛下も賛成されたとのこと。


その後広田弘毅が再び外務大臣となった時にあの南京大虐殺事件が起こり、それを知った彼は体を震わせて大激怒し、陸軍大臣に早く軍紀の粛正を図るように求めたのだが、軍部の勢力は加速し、戦争は拡大されていくこととなった。


★極東軍事裁判でたった一人文民として極刑を受けた広田弘毅

敗戦後に行われた極東軍事裁判での広田弘毅の罪状は、
・南京大虐殺と日中戦争を始めたこと
・外務省が南京大虐殺を黙秘したこと


この2点において当時の外務大臣だった広田弘毅の責任を追及したのだった。


極東軍事裁判において広田弘毅は「黙して語らず」と黙秘権を貫き、証言台に上がることを拒み続けました。



人間は喋れば必ず自己弁護が入り、結果的に他の誰かの非を挙げることになると、かねてから信条としてきた「自ら計らわぬ」の生き方を、命がかかった裁判でも変えることはなかったのです。


「自分に責任がある」と言いつづける広田に弁護人も何もできなかったと言う。



広田弘毅の妻静子は裁判が最悪の事態になった時のことを勘案し、夫の生への未練を少しでも軽減するために自害してしまったのです。


このことは獄中の広田にももちろん伝えられましたが、その後も獄中から家族へ送られる手紙はずっと静子宛だったという。(なんとも悲しいお話です)


★6対5の一票の差で死刑判決

その後の判決では、判事の1人が「裁く者の手も汚れている」とその不当さをなじり、戦犯を追及したキーナン主席検事ですら「最高でも終身刑までが妥当ではないか?」と憤慨したと言う。


全国で広田弘毅の減刑嘆願の動きが盛り上がったにも拘らず、その願いが叶うことはなかった。





極刑になる際も「健康で黙々として死に就いたと言う事実だけを伝えてください」と、遺書や手紙は一切残さずに、妻静子の元に旅立ったと言う。



戦争へとひた走る軍部と激しくぶつかりながら外国との共存共栄を目指した男は最後まで自己弁護をせずに極刑を甘受した。


金と政治の問題でメスを入れられても、たいした責任も取らずに都合が悪くなるとすぐに入院して大臣を更迭されても国会議員でい続ける厚顔無恥な破廉恥極まりない誰かさんたちとは次元が違う様な気がするのは私だけではないと思います。


福岡の先達としての彼の生き様を誇りに思います。


後世語り継がねばならない郷土の名士ではないでしょうか?























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貝原東軒は貝原益軒の妻であり良妻の範と称された [知っておきたい博多の人物]

福岡の秋月藩出身の貝原東軒16歳の時に貝原益軒と結婚した。
そのとき貝原益軒は39歳


名前は江崎初で、字(あざな)は得生



貝原東軒は類稀な才女であり、和歌に巧みであり、楷書も巧みで、京都では能筆家として認められるほどの達筆であった。



貝原益軒との共作の掛け軸も残っていて、有名なものは貝原東軒が「敬愛」と楷書で大書きし、これに貝原益軒が細書きで解説を記したもので、夫婦の仲が良いことが伝わってくる作品として知られる。



また、夫婦で筝・胡琴の合奏も楽しんだという。



20歳以上も年の離れた妻を愛した貝原益軒は、62歳と69歳のときに京都に妻の東軒を同行させた。
当時は婦人と一緒の旅は珍しく、愛妻家振りが知れ渡った。



日本各地を夫婦で視察して、貝原益軒の巡遊記に達筆で補筆した妻であった。



妻の東軒は62歳で他界するが、40年以上も仲良く連れ添った妻を亡くした益軒は心身ともに疲労し、来客を断って引きこもりとなった。



貝原益軒は、妻の死から8ヵ月後、妻の後を追うように85年の生涯を終えた。



貝原益軒の偉業を陰で支えた妻




シーボルトから「東洋のアリストテレス」と称され、「養生訓」をはじめとする膨大な著書を残した偉大な学者であった貝原益軒。


だが、当時としては驚くべき年齢の85歳まで生きていろいろな学問を広く世間に広めながら書物にしていったのは才女である妻の東軒がいたからこそ。



自分の娘でもおかしくない20歳以上も年の離れた妻をこよなく愛した郷土が誇る偉人貝原益軒と妻東軒のお墓は福岡市中央区今川の金龍寺にあります。
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福岡市の文化財より



秋月を訪れた時は、東軒生誕の地も是非とも訪れてみたいものです。







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貝原益軒は「養生訓」だけではない「東洋のアリストテレス」だった! [知っておきたい博多の人物]

貝原益軒と言えば、大学入試で日本史を選んだ方でなくても有名すぎるほど有名な「養生訓」を書き記した福岡が誇る東洋のアリストテレスと呼ばれる博学の儒学者でした。


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ウィキペディアより



自身も江戸時代初期に85歳まで長寿をまっとうしたと言う驚くべき存在でもありました。



儒学だけにとどまらず、医学・地理・歴史などの自然科学の分野にも幅広い実績と膨大な著書を残したことでも知られています。



貝原益軒の有名な著書の概略





「養生訓」は養生書であると同時に医学書でもあり、食や生活態度における健康維持の秘訣が満載されており、今尚読み返しても全く古めかしくはない内容ばかりで反省させられる。
貝原益軒 養生訓



「大疑録」は、朱子学の信奉者だった貝原益軒が晩年になるにつれて朱子学に対する疑問を綴った書。



「筑前国続風土記」は、30巻に及ぶ大地誌で、日本各地を巡回して実地見聞に基づいた著。



「大和本草」は、およそ1360種類の動植物や鉱物を取り上げ、その日本名と中国名、来歴、形状、効用などを詳しく書いた著。



これらは代表的な著書であり、もっともっとあるから凄い。



貝原益軒は気骨ある男だった





貝原益軒が生まれたのは江戸幕府の3代将軍家光の時代である1630年。



父は福岡藩の秘書のような仕事をしていたが、父は浪人となり山村や農村を転転とする暮らしぶりの中で、5男として生まれ、幼い頃から学問の才能はピカイチで神童と呼ばれていた。


7歳の頃には独学で仮名を覚えて、19歳で衣料調達の出納係として仕えたのであるが、陽明学の影響でやりたいことはやるとの意志が藩主の逆鱗に触れて2年で失職。


そののち藩主が交替した27歳の時に復職。


時の藩主黒田光之は学問に非常に関心が高い人物で貝原益軒を重用することとなる。



貝原益軒の信じ難い功績




三代目の黒田藩主のもとで、貝原益軒は京都へは24回、江戸には12回も遊学している。



その都度各地を遊覧しては、見聞を深め、農学者や朱子学者らとの交流をはかり、学問の幅を深めた。



学者と言うよりは暮らしに役立つ知識を大勢の人々に伝えたいと考えていたようで、儒学、神道、本草学、医学、歴史学、地理学、など百数十に及ぶ著書を執筆し、超人的な業績を残した。



幕末に来日したシーボルトは貝原益軒のことを「東洋のアリストテレス」と称した。



また、貝原益軒は詩歌管弦が好きな風流人・文化人でもあった。



更に、政治に及んでも、飢饉の時は農民に米や麦を貸し与えたり、お金を貸し出すなどしただけではなく、福岡藩の重臣達に「農民や町民を苦しめると、必ず天罰が下り飢饉や天災が起こる」と忠告して善政を説いたと言う。



その才能は多岐に及んだが、それだけではなかった。



そのことに関しては次の記事に書きます。















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川上音二郎の生涯はドラマチックな舞台そのもの [知っておきたい博多の人物]

川上音二郎と言えば「オッペケペ節」で知られる人物なのですが、100年以上も前に流行った「オッペケペ節」を知る人は現在の福岡市でも少ない。


「オッペケペ節」を聞いたことがない方はこちらが参考になります。

(こちらの音声は残念なことに川上音二郎の肉声ではありません。)


自由民権運動に絡ませた歌詞が大流行になり、日本のラップの原点かもしれないと思えるような曲だと思えませんか?


だが、彼の最大の功績は「オッペケペ節」だけではなく、日本に新たな演劇の風を吹かせたことだった。


川上音二郎の生涯




1877年に廻船問屋を営む実家から13歳で家出した音二郎は、大阪まで船に潜り込んで、大阪から東京までを歩いていったと言う。


東京・芝の増上寺に転がり込んで小坊主をしているときに福沢諭吉と出会う。


福沢諭吉は学問をしたくてもお金がない少年達を用務員&無料聴講生として慶応義塾の寄宿舎に住まわせたのだが、音二郎は門限破りの学生達から小遣いをせしめたことで福沢諭吉の逆鱗にあい、そこを放り出されることとなる。


その後いろいろな職に就きながら、自由党の壮士となる。


ここで「オッペケペ節」が大流行となり、一座を旗揚げして当時一流の芸者だったと知り合い結婚する。


奴はその後「貞奴」と名乗り芝居に出るようになり、日本発の女優として知られることとなる。


貞奴と音二郎はアメリカのボストンやフランスのパリへと世界へ駆け出した。


ボストンでは興行師に全収入を持ち逃げされるハプニングにも遭うが、パリでは画家のピカソ、彫刻家のロダン、ノーベル文学賞を貰ったフランスの小説家アンドレ・ジードらを魅了したと言うから凄い。


シェークスピア劇をはじめ海外の演劇を導入し、日本の芝居を変えたのも音二郎であった。


6回の博多公演では小学生らを招待し、故郷の博多を愛した。


だが、1911年音二郎が47歳の時に、自身が大阪に建てた2500人収容の帝国座の舞台の上で亡くなった。


死んだ後も、旅役者を乗せた汽車を見守りたい」と言う音二郎の遺志によって、当時博多駅近くの線路そばにあった博多区の承天寺に音二郎の墓がある。


音二郎の像が川端商店街の入り口にあります。
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「提供:福岡市」


無鉄砲で自由奔放だったが愛すべき人物であったという。


後世に語り継がれるべき世界の舞台で喝采を浴びた博多っ子は天衣無縫のチャレンジャーでもあった。







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