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貝原益軒は「養生訓」だけではない「東洋のアリストテレス」だった! [知っておきたい博多の人物]

貝原益軒と言えば、大学入試で日本史を選んだ方でなくても有名すぎるほど有名な「養生訓」を書き記した福岡が誇る東洋のアリストテレスと呼ばれる博学の儒学者でした。


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ウィキペディアより



自身も江戸時代初期に85歳まで長寿をまっとうしたと言う驚くべき存在でもありました。



儒学だけにとどまらず、医学・地理・歴史などの自然科学の分野にも幅広い実績と膨大な著書を残したことでも知られています。



貝原益軒の有名な著書の概略





「養生訓」は養生書であると同時に医学書でもあり、食や生活態度における健康維持の秘訣が満載されており、今尚読み返しても全く古めかしくはない内容ばかりで反省させられる。
貝原益軒 養生訓



「大疑録」は、朱子学の信奉者だった貝原益軒が晩年になるにつれて朱子学に対する疑問を綴った書。



「筑前国続風土記」は、30巻に及ぶ大地誌で、日本各地を巡回して実地見聞に基づいた著。



「大和本草」は、およそ1360種類の動植物や鉱物を取り上げ、その日本名と中国名、来歴、形状、効用などを詳しく書いた著。



これらは代表的な著書であり、もっともっとあるから凄い。



貝原益軒は気骨ある男だった





貝原益軒が生まれたのは江戸幕府の3代将軍家光の時代である1630年。



父は福岡藩の秘書のような仕事をしていたが、父は浪人となり山村や農村を転転とする暮らしぶりの中で、5男として生まれ、幼い頃から学問の才能はピカイチで神童と呼ばれていた。


7歳の頃には独学で仮名を覚えて、19歳で衣料調達の出納係として仕えたのであるが、陽明学の影響でやりたいことはやるとの意志が藩主の逆鱗に触れて2年で失職。


そののち藩主が交替した27歳の時に復職。


時の藩主黒田光之は学問に非常に関心が高い人物で貝原益軒を重用することとなる。



貝原益軒の信じ難い功績




三代目の黒田藩主のもとで、貝原益軒は京都へは24回、江戸には12回も遊学している。



その都度各地を遊覧しては、見聞を深め、農学者や朱子学者らとの交流をはかり、学問の幅を深めた。



学者と言うよりは暮らしに役立つ知識を大勢の人々に伝えたいと考えていたようで、儒学、神道、本草学、医学、歴史学、地理学、など百数十に及ぶ著書を執筆し、超人的な業績を残した。



幕末に来日したシーボルトは貝原益軒のことを「東洋のアリストテレス」と称した。



また、貝原益軒は詩歌管弦が好きな風流人・文化人でもあった。



更に、政治に及んでも、飢饉の時は農民に米や麦を貸し与えたり、お金を貸し出すなどしただけではなく、福岡藩の重臣達に「農民や町民を苦しめると、必ず天罰が下り飢饉や天災が起こる」と忠告して善政を説いたと言う。



その才能は多岐に及んだが、それだけではなかった。



そのことに関しては次の記事に書きます。















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