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筑前町の大刀洗平和記念館に行ってみませんか? [歴史資料館]

私の亡父は大正14年生まれの生粋の小倉っ子ですが、時代が時代だっただけに東京陸軍少年飛行学校に行き戦時中は陸軍のパイロットでした。



「捨てた命」と思いつつも、終戦を山口県の小月の飛行場で迎えたことを父からたびたび聞かされました。


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父は既に10年以上前に他界したのですが、生前大刀洗平和記念館に行きたがっていたにもかかわらず、私が戦時中の飛行機などを展示しているところがただ単に好きになれずに、連れて行ってやらずじまいだったんです。


今覚えば、何と親不幸なことをしたのかと自省することしきり。


父の戦争を美化したような口ぶりが高校生の頃からイヤで嫌でたまらなかった記憶が蘇ってきましたが、父が生きた時代を思い浮かべて、父が生まれ育った環境を考えると、私自身の狭量さに改めて恥ずかしくなりました。


長男として父親に反抗して、父が生きた時代のすべてを全否定する様な私の愚かさを今更のように恥じるのです。


年老いた父に、「こんなとんでもない時代によ~生き延びられたね~!」という一言が云えなかった自分自身が恥ずかしし、情けない。


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筑前町の大刀洗平和記念館には珍しいゼロ戦が常設展示されています。


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ですが、生前父から聞いたのは、父が小月で載っていた飛行機は「トリュウ」と呼ぶ飛行機だったと記憶しています。


その模型がありました。


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その写真がありました。


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「父が昭和20年に二十歳の時にこの飛行機に乗っていたのか~!?」と思うと不思議な気分でした。


大刀洗に飛行場があり、当時の小学生たちが爆撃に遭った映画を中で鑑賞しましたが、心に穴が空いたような気分になりました。


B29からおよそ1000発の爆弾を落とされた大刀洗飛行場とその周辺の悲劇。


父はここで手を合わせかったに違いないと思いました。


高校時代に北九州市にいた私は、大刀洗の悲劇のことも知らず、父の思いも知らずにただただ反抗期の真っ只中でした。


決して饒舌な父ではなかっただけに、ことの真意を上手く家族にすら伝えられなかったと、今になって推察するのですが、後の祭りです。


父には本当にすまなく思っていますので、この記事を書かせていただきました。


「大刀洗の平和記念館に連れて行ってやれんですいません!!」と手を合わせたい気持ちです。



私はあの北部九州豪雨の時に朝倉市にいました。



なぜか筑前町や朝倉市は、縁があるみたいなのです。









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