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川上音二郎の生涯はドラマチックな舞台そのもの [知っておきたい博多の人物]

川上音二郎と言えば「オッペケペ節」で知られる人物なのですが、100年以上も前に流行った「オッペケペ節」を知る人は現在の福岡市でも少ない。


「オッペケペ節」を聞いたことがない方はこちらが参考になります。

(こちらの音声は残念なことに川上音二郎の肉声ではありません。)


自由民権運動に絡ませた歌詞が大流行になり、日本のラップの原点かもしれないと思えるような曲だと思えませんか?


だが、彼の最大の功績は「オッペケペ節」だけではなく、日本に新たな演劇の風を吹かせたことだった。


川上音二郎の生涯




1877年に廻船問屋を営む実家から13歳で家出した音二郎は、大阪まで船に潜り込んで、大阪から東京までを歩いていったと言う。


東京・芝の増上寺に転がり込んで小坊主をしているときに福沢諭吉と出会う。


福沢諭吉は学問をしたくてもお金がない少年達を用務員&無料聴講生として慶応義塾の寄宿舎に住まわせたのだが、音二郎は門限破りの学生達から小遣いをせしめたことで福沢諭吉の逆鱗にあい、そこを放り出されることとなる。


その後いろいろな職に就きながら、自由党の壮士となる。


ここで「オッペケペ節」が大流行となり、一座を旗揚げして当時一流の芸者だったと知り合い結婚する。


奴はその後「貞奴」と名乗り芝居に出るようになり、日本発の女優として知られることとなる。


貞奴と音二郎はアメリカのボストンやフランスのパリへと世界へ駆け出した。


ボストンでは興行師に全収入を持ち逃げされるハプニングにも遭うが、パリでは画家のピカソ、彫刻家のロダン、ノーベル文学賞を貰ったフランスの小説家アンドレ・ジードらを魅了したと言うから凄い。


シェークスピア劇をはじめ海外の演劇を導入し、日本の芝居を変えたのも音二郎であった。


6回の博多公演では小学生らを招待し、故郷の博多を愛した。


だが、1911年音二郎が47歳の時に、自身が大阪に建てた2500人収容の帝国座の舞台の上で亡くなった。


死んだ後も、旅役者を乗せた汽車を見守りたい」と言う音二郎の遺志によって、当時博多駅近くの線路そばにあった博多区の承天寺に音二郎の墓がある。


音二郎の像が川端商店街の入り口にあります。
img0136.jpg
「提供:福岡市」


無鉄砲で自由奔放だったが愛すべき人物であったという。


後世に語り継がれるべき世界の舞台で喝采を浴びた博多っ子は天衣無縫のチャレンジャーでもあった。







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